カネキヨ食品 商品カタログ
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作兵衛(1688~1732)  伊予郡筒井村(現、松前町)の貧しい農家に生まれる。家族と共によく働き、筒井村の模範百姓となる。享保17年、重信川の氾濫による水害や、害虫の大量発生により作物は不作となり多くの餓死者が出る。作兵衛も家族を亡くし自らも飢えで倒れる。村人は作兵衛が枕にしていた麦俵を見て、それを食べるよう勧めるが「私は餓死してもこの麦種を守ることで、多数の命を救うことが出来る」と言い残し息を引き取る。村人達はその麦種で飢饉を乗り切った。後に松山藩主松平定静は「義農」として称え、碑を建立する。その後も「義農精神」は脈々と受け継がれている。元禄1年~享保17年朝汐 太郎(1864~1920)  明治時代の力士、本名 増原太郎吉は現在の八幡浜で生まれる。幼い時から体力に秀で、17歳の時八幡浜に来た大阪相撲の力士に連れられ大阪へ行き、押尾川部屋へ入門。後に東京の高砂部屋に入門し、朝汐を名乗る。 29歳で関脇、5年後には大関となり、宇和島藩主伊達家より化粧まわしを送られる。44歳で引退するまで、138勝76敗31引き分けの成績を残し、その名は高砂部屋を代表する四股名として受け継がれている。元治1年~大正9年作兵衛の墓義農神社の作兵衛像28代木村庄之助書の碑朝汐太郎さくべえあさしおたろう愛媛の著名人

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